
パッサージョとは、イタリア語でブリッジとかチェンジという意味です。「声の転換点」として使われ、私は高いF(ファ)のようです。
東京の西でくもん教室を開いているすずきです。
大人の世界へのあこがれってありませんか。
飛行機に乗ってみたいとか、一流ホテルのレストランで食事をしてみたいとか。
そこには、子どもでは手にすることにできないお金が関係してきますね。
このお話しは、ちょっと大人の世界をのぞこうと思って背伸びした小僧が、バツの悪い(イタい)経験をしてしまうお話しです。
文庫本で16ページのお話しですから、すぐ読めてしまいますよ。

『小僧の神様』は「くもんのすいせん図書」に選ばれています。
私はくもん教室を始めてから、”くもんのすいせん図書”を知り、そこに紹介されている本を、日々楽しみながら、趣味を超えたライフワークとして読んでいますよ。

面白そうな本がたくさん紹介してあって、ゆうすけが、また勉強しないで本読んじゃうわね。
鮪は一つ六銭だった
「仙吉は早く自分も番頭になって、そんな通らしい口をききながら、勝手にそう云う家の暖簾(のれん)をくぐる身分になりたいものだと思った」
番頭さん二人が、今夜鮨でも食いに行こうかと話しているのを聞いて、仙吉はこう思ったのです。
そして、仙吉はある日、うわさの鮨屋の近くに使いに出されます。
「一つ六銭だよ」と主がいった。
小僧は落とすように黙ってその鮨を又台の上に置いた。
「一度持ったのを置いちゃあ、仕様がねえな」そう云って主は握った鮨を置くと引きかえに、それを自分の手元へかえした。
読んでいて胸が痛くなる光景です。仙吉は帰りの電車代を浮かせて、鮨を1つだけ食べようとしたのです。
主は、「一つを握り終ると、その空いた手で今小僧の手をつけた鮨を器用に自分の口へ投げ込むようにして直ぐ食って了(しま)った。」
今では、すし職人さんがお客さんの目の前で食べてしまうなんて、ちょっと考えられませんが、当時は許されたのでしょう。その姿が、生き生きと目に浮かびますね。
奥ゆかしい人たち
私は、鮨屋(上で紹介する鮨屋とは別)のかみさんのセリフが耳に残っています。
お代を沢山頂いているのだから、また食べに来てくれないと、こっちが困るんだといいます。川端康成の『伊豆の踊子』で、茶店の婆さんが私に繰り返し言う「もったいのうございます」というセリフとちょと似ている気がします。
当時の日本人の商売道としては、「たくさんもらってラッキー」という感覚はないのでしょう。ここから先は、私の想像ですが、仮にまた小僧が来るようなことがあったら、鮨屋は必ずご馳走すると思います。
「そうつけ上ることは恐ろしかった」と、再び鮨屋には行かなかった小僧、自分のした善事に対して「変に淋しい気持ちになった」A、Aの話しに、不意に「ええ、そのお気持ちわかるわ」と言った善良な細君。
ここに登場する人たちは、ちょっと現代の日本人と違う気がします。皆「奥ゆかしい」ですね。
古い時代は良き時代なのか?
志賀直哉が『清兵衛と瓢箪』を発表したのが1913年、『小僧の神様』は1920年です。
7年しか違いませんが、そこに登場する人物像はまるで違います。
清兵衛の父親や教員に対して、鮨屋のかみさん、小僧、A。
同じ時代のお話しですから、古い時代がすべて良き時代という訳ではなさそうです。
ちなみに大違いと言えば、ここに登場する、神田、鍛冶橋、京橋はいずれも、東京駅から徒歩圏内の高層ビル街です(神田は少し古い街並みを残していますが)。100年前は全然違ったのでしょうね。
擱筆(かくひつ)してないですよね
作者は、「ここで筆を擱(お)く」と書いて、この小説を終わらせることをはじめから意図していたのだと思います。落語でいうところのオチが、最後の5行で示されます。
でも、小僧に対し少し惨酷(ざんこく)な気がしたから擱筆(かくひつ)するのですよね。そう書いてしまったら、すでに残酷ですよ!志賀直哉先生。

保護者さまへ
私がこの小説を知ったのは、確か小学校時代に通っていた塾のテキストだったと思います。テキストは一部しか載っていないでしょうから、その後で全文を読んだのでしょう。
当時は最後のオチにすっかり魅了され、「ワーッ、面白い」と思ったものです。
残酷という点で言えば、太宰治は『如是我聞』で、この作品を名指しで批判しています。太宰は志賀に作品を批判され、相当な恨みがありました。「まるで新興成金そっくり」と言っています。小説の中では、Aの行為を鮨屋のかみさんが「粋な人」と言っていますが、太宰はそれを、貧しき者への残酷さに無自覚な「成金」のする行動だと糾弾するのです。
太宰は明らかに憤懣やるかたない私怨を吐き出しているのですから、ここで採り上げるほどの話しではないのですが、太宰の視点で考えてみると、なるほどうなづける点があります。Aが貴族院議員であること。子どもが幼稚園に通っているほどに若いこと。議員仲間のBがAに、「食えるだけ食わしてやると言ったら、さぞ喜んだろう」と言っていること。
Aは自分の善事を偽善ではないかと思い悩んでいますが、そこには、明らかな階級差が存在していたことが分かります。
温かい感じがするのは・・・
さはさりながら、この小説には、残酷な色彩もなければ、成金趣味を感じさせる要素はないでしょう。少なくとも小僧も鮨屋も小僧が奉公しているお店もよい思いをしたのです。偽善だったのではないかと悩むA(買い手)が起こした行動が、多くの人を幸せをしたのだと思います。
蛇足ですが、この短編小説は、朗読に最もピッタリな長さですが、いわゆる有名な朗読系YouTuberが誰も採り上げていません。なので、いつか自分が朗読してみようかなと思っています。
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