『海と毒薬』~戦時中の生体解剖事件に関わった人々の人間模様

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筋トレを、よく使われる英語に翻訳するとworkoutになるのは、何となく不思議ですね。東京の西でくもん教室を開いているすずきです。

みなさん、生きた人間を解剖すると聞いたら、どう思いますか。信じられないですよね。
でも、「これは戦時下の話しである」と聞けば、あなたは「仕方がないか」と納得しますでしょうか。

主人公の勝呂(すぐろ)は、(戦後しばらく経った)後に、「これからだって自信がない。これからもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない……(P25)」と言っています。「え?どういうこと」って思いますよね。なかなか深いお話しです。

『海と毒薬』は「くもんのすいせん図書」に選ばれています。

私はくもん教室を始めてから、”くもんのすいせん図書”を知り、そこに紹介されている本を、日々楽しみながら、趣味を超えたライフワークとして読んでいますよ。

面白そうな本がたくさん紹介してあって、ゆうすけが、また勉強しないで本読んじゃうわね。

「くもん教室」は、独自の教材(算数・数学、英語、国語)を使って、「自分で学ぶ力(自学自習力)」を養います。「可能性の追求」を大切にしている教室です。

「くもんのすいせん図書」は、子ども達に人気が高く、優れた内容の650冊を選りすぐって紹介したものです。詳細は、「くもんについて」をご覧ください。

心に深い闇を抱える勝呂医師

遠藤周作は、主に1950年代後半から1970年代に活動した小説家で、クリスチャンです。私は、日曜日の政治討論番組に出てきて、面白おかしく話していたおじいちゃんというイメージしかありません。

作家としての遠藤周作は、50年後半から60年代に立て続けに代表作を書いています。1960年に大病を患って以降は、もしかしたら、緩い生活をしながら、ユーモアあふれる人生に切り替えたのかも知れません。

さてこのお話しは、戦争中に日本の大学病院で、アメリカの捕虜を人体解剖した話しです。

調べるとWikipediaに「九州大学生体解剖事件」と出てきますので、実話をモチーフ(着想)に作られた小説ということになります。

「海と毒薬」という表題の第一章に、勝呂(すぐろ)という医者が登場します。

初めて勝呂医院に訪問した私は、気胸(肺に穴があいて肺から空気が漏れ、肺がしぼんでしまう病気)なのですが、レントゲンを家においてきたことが分かると、勝呂医師は「仕方がない」と言って、扉を閉めてしまいます。

この不気味なつかみに、小説の主人公とともに、私も、勝呂という人物に妙な関心を抱くことになります。

「平凡が一番、幸福なのだ」というセリフが、勝呂の口から何度か出てきます。過去に深い闇を抱えているさまが、思わせぶりに描かれます。

私は、この第一章の前半が一番面白く読めました。勝呂医師の医者としての力量と性格上の影が、人物への興味をかき立てるよう巧みに描かれており、作中の「私」が、読者の「私」の好奇心をミステリー仕立てに解き明かしてくれるからです。

「え?これで終わりなの」

この小説は、非常に不思議な構成になっていると感じます。
第一章は、私と勝呂医師とのやり取りが続いたかと思うと、突然、話が大学病院勤務時代に変わります。第二章は、事件に関わる2人の登場人物が、一人称で(つまり「私」と名乗って)心の内を独白します。そして、例の事件の直前までが描かれます。第三章は、事件そのものが取り扱われます。

まとまりのない、散文的な構成がすごく印象的で、小説が終わった後も、「えっ?これで終わりなの」といった終わり方です。

私がこの小説から感じたのは、「事件に関わった人々は、極めて個人的な感情と動機でそこに参加している」ということでした。

作者は、事件の残虐性、非倫理性を糾弾(きゅうだん)したかったのではなく、そこに関与した一人一人の心の中に焦点を当てたかったのでしょう。

だから、事件のあとの裁判の経過や総括などは、書く必要がなく、関係者の個人的な感情や思考、あるいは生い立ち・背景を、読者に伝えることで十分だったのです。それが、この小説の散文的な構成を生み出したような気がします。

良心の呵責とは

戸田は勝呂と同僚の若手医師です。第二章の「医学生」という表題のところで、自分のことを独白します。そこで「良心の呵責」について、延々と書いています。
「他人の眼や社会の罰だけにしか恐れを感ぜず、それが除かれれば恐れも消える自分が不気味になってきた(P116)」と書いています。そのような自分というもののおそろしさに、おびえているのです。

そして、助教授や助手たちも自分と同じだということに気づきます。

生体解剖が行われた後、勝呂とこんなやりとりをします。

「でも俺たち、いつか罰をうけるやろ」勝呂は急に体を近づけて囁いた。「え、そやないか。罰をうけても当り前やけんど」

「罰って世間の罰か。世間の罰だけじゃ、なにも変らんぜ」戸田はまた大きな欠伸をみせながら「俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰する連中かて同じ立場におかれたら、どうなったかわからんぜ。世間の罰など、まずまず、そんなもんや」

『海と毒薬』 遠藤周作 角川文庫 P156

大きなものに抗(あらが)うなんてとても無理であり、流されるのは仕方のないこと。そこには、自己正当化と世間に対するある種諦めの境地が示されています。

これが、「良心の呵責」を感じることのない自分を不気味に思い、いつか半生の報いを受けなければならないと、心のうちで苦しんでいたはずの戸田が最後に至った心境です。

第二章のもう1人の登場人物、上田ノブという看護師の独白も、この小説にとって大事な要素になっています。

この作品は、読み手によって、感想は十人十色でしょう。私のブログはある一面を語ったにすぎません。

あなたが『海と毒薬』を読んだ後、何を感じたのか、いつかぜひ聞かせてください。

保護者さまへ

この作品は、私が学生の頃から「新潮文庫の100冊」の常連であり、中編小説(167ページ)ということもあって、すでにお読みになった方も多いかと思います。

高校生の娘が読みたいといって、Kindleで買ってあげたものを、私があとから、初めて読みました。

正直、掘り下げて読もうとすると難しい作品だと思います。山崎豊子の『白い巨塔』を思わせる大学病院の実態や、太宰治の『人間失格』を髣髴(ほうふつ)とさせる戸田の自分語り、上田ノブの怨念など、要素がたくさんあって、小説の感じ方は人それぞれだと思います。

グロテスクすぎて受け付けられないようなエピソードも交じっており、そこは、子どもなりに消化していくのだと思います。

当ブログは、公文式教室を開設していた元指導者が、個人として執筆・運営しているものであり、株式会社公文教育研究会およびそのグループ会社(本部)とは一切関係ありません。

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